豊臣秀吉
2016年01月21日
1 : 名無しさん@涙目です。(静岡県)@\(^o^)/ :2016/01/21(木) 19:36:01.76 ID:if8auZZe0.net BE:218927532-PLT(12121) ポイント特典
羽柴秀吉が、家臣の武将、脇坂安治に宛てた書状33通が見つかった。兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館と東京大が21日発表した。
「天下人」の書状がまとまって確認されるのは異例。天下統一や朝鮮出兵の過程での細かな指示ぶりや叱責(しっせき)を飛ばしていた様子がうかがえるという。
書状は織田信長が本能寺の変で倒れた後の約10年間分で、信長の次男・信雄(のぶかつ)や徳川家康と覇権を争った小牧・長久手の戦いや越中の佐々成政攻め、九州の島津攻め、朝鮮出兵などに関する内容。
85年の書状は、2カ月で13通に及んだ。正親町(おおぎまち)天皇が譲位後に住んだ京都の仙洞御所造営に使う材木の手配を伊賀で行うよう命じた安治に対し、越中出陣を望んだことや材木輸送の遅滞を再三叱責。
伊賀の統治についても細かく指示し、統治がうまくいかなければ蒲生氏郷ら他の武将を派遣すると告げた。追放した近臣の1人をかくまわないよう指示し、「信長の時代のようには甘くない」とすごみも利かせていた。
朝鮮出兵でも、
「小西行長が釜山の海城を落としたと聞いたが、皆で攻めるよう申し渡したはず。早く合流して戦え」「明との国境に攻め入ったのはめでたい。しっかりと高麗国を攻めよ」
「普請などしっかり行え」と再三指示していた。
「三月に渡海するから待っていろ」「来春明に渡る予定である」とも記し、秀吉本人が渡海予定だったことも改めてわかった。
編纂所の村井祐樹助教(日本中世史)は「しつこいぐらいに細かい秀吉の性格がわかる。子飼いの武将だった安治との親密さもうかがえる」と話す。
豊臣秀吉文書集(名古屋市博物館編)の編集委員会委員の藤田達生・三重大教授(日本史学)は「伊賀は当時、自治の伝統が強かった。信頼の厚い安治を派遣し、指示を再三与えたことから相当に気をつかっていたことがわかる」と指摘する。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ1P5T15J1PPTFC012.html
続きを読む
羽柴秀吉が、家臣の武将、脇坂安治に宛てた書状33通が見つかった。兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館と東京大が21日発表した。
「天下人」の書状がまとまって確認されるのは異例。天下統一や朝鮮出兵の過程での細かな指示ぶりや叱責(しっせき)を飛ばしていた様子がうかがえるという。
書状は織田信長が本能寺の変で倒れた後の約10年間分で、信長の次男・信雄(のぶかつ)や徳川家康と覇権を争った小牧・長久手の戦いや越中の佐々成政攻め、九州の島津攻め、朝鮮出兵などに関する内容。
85年の書状は、2カ月で13通に及んだ。正親町(おおぎまち)天皇が譲位後に住んだ京都の仙洞御所造営に使う材木の手配を伊賀で行うよう命じた安治に対し、越中出陣を望んだことや材木輸送の遅滞を再三叱責。
伊賀の統治についても細かく指示し、統治がうまくいかなければ蒲生氏郷ら他の武将を派遣すると告げた。追放した近臣の1人をかくまわないよう指示し、「信長の時代のようには甘くない」とすごみも利かせていた。
朝鮮出兵でも、
「小西行長が釜山の海城を落としたと聞いたが、皆で攻めるよう申し渡したはず。早く合流して戦え」「明との国境に攻め入ったのはめでたい。しっかりと高麗国を攻めよ」
「普請などしっかり行え」と再三指示していた。
「三月に渡海するから待っていろ」「来春明に渡る予定である」とも記し、秀吉本人が渡海予定だったことも改めてわかった。
編纂所の村井祐樹助教(日本中世史)は「しつこいぐらいに細かい秀吉の性格がわかる。子飼いの武将だった安治との親密さもうかがえる」と話す。
豊臣秀吉文書集(名古屋市博物館編)の編集委員会委員の藤田達生・三重大教授(日本史学)は「伊賀は当時、自治の伝統が強かった。信頼の厚い安治を派遣し、指示を再三与えたことから相当に気をつかっていたことがわかる」と指摘する。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ1P5T15J1PPTFC012.html
転載元スレッド:http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1453372561/
秀吉が家臣に出した書状が見つかる 「ワシは信長のように甘くないぞ」など脅しも
秀吉が家臣に出した書状が見つかる 「ワシは信長のように甘くないぞ」など脅しも
続きを読む
2015年07月14日
1 : 白夜φ ★[ageteoff] :2015/07/14(火) 09:28:28.70 ID:???.net
秀吉が「木下藤吉郎」名乗った最後の文書発見
引用元:YOMIURI ONLINE 2015年07月12日 12時13分
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150712-OYT1T50012.html
豊臣秀吉が木下藤吉郎を名乗った最後にあたる文書(1573年5月付)が見つかったと兵庫県豊岡市教育委員会が10日、発表した。
従来の研究では木下姓を記した最後の文書は72年12月のもの、羽柴姓になった最初の文書は73年7月のものだったが、今回の文書により改姓時期が73年5〜7月に絞り込めるとしている。
自領の部下に税の取り立てを促す内容で、木下姓で自らの指示を細々と記した文書は少なく、専門家は「大名になる前の秀吉を知るうえで貴重」とする。
(引用ここまで 全文は引用元参照)
豊岡市の旧家に残っていた木下藤吉郎の名で書かれた文書(兵庫県豊岡市教委提供)

続きを読む
秀吉が「木下藤吉郎」名乗った最後の文書発見
引用元:YOMIURI ONLINE 2015年07月12日 12時13分
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150712-OYT1T50012.html
豊臣秀吉が木下藤吉郎を名乗った最後にあたる文書(1573年5月付)が見つかったと兵庫県豊岡市教育委員会が10日、発表した。
従来の研究では木下姓を記した最後の文書は72年12月のもの、羽柴姓になった最初の文書は73年7月のものだったが、今回の文書により改姓時期が73年5〜7月に絞り込めるとしている。
自領の部下に税の取り立てを促す内容で、木下姓で自らの指示を細々と記した文書は少なく、専門家は「大名になる前の秀吉を知るうえで貴重」とする。
(引用ここまで 全文は引用元参照)
豊岡市の旧家に残っていた木下藤吉郎の名で書かれた文書(兵庫県豊岡市教委提供)

転載元スレッド:http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/femnewsplus/1436833708/
【兵庫】秀吉が「木下藤吉郎」と名乗った最後の文書 豊岡市の旧家で発見
【兵庫】秀吉が「木下藤吉郎」と名乗った最後の文書 豊岡市の旧家で発見
続きを読む
2014年12月22日
1 : ジャストフェイスロック(大阪府)@\(^o^)/ :2014/12/22(月) 14:42:04.93 ID:Tpp1ngR70.net BE:711292139-PLT(13121) ポイント特典
豊臣秀吉が中国攻めの難航や黒田官兵衛幽閉の責任を負って、「筑前守(ちくぜんのかみ)」の名乗りを織田信長に返上したか、剥奪されていた可能性が高いことが中京大の播磨良紀教授(織豊期(しょくほうき)研究)の研究でわかった。
播磨教授は「本能寺の変以前の秀吉の実像解明につなげたい」と話している。
約7000通にのぼる秀吉の文書を集成する「豊臣秀吉文書集」(名古屋市博物館編、来月刊行)の編集作業で判明したといい、学術誌「織豊期研究」で発表した。
秀吉は1573年7月、木下姓から羽柴姓になり、75年に筑前守を名乗り始めたが、定説では「藤吉郎秀吉」と「筑前守秀吉」を併用していたとされる。
しかし、播磨教授によると、羽柴時代の文書約1000点の署名を時系列で調べたところ、75年〜78年12月は「筑前守」、同月〜81年7月は「藤吉郎」だった。
秀吉は当時、信長の命で中国地方の征討に乗り出し、播磨(兵庫県西部)を制圧。さらに西の毛利氏と戦おうとしたが、78年2月に播磨の大名の別所氏、同年11月には有岡城(同県伊丹市)の荒木村重が反乱を起こし、村重を説得しに行った黒田官兵衛が幽閉された。
再び筑前守を名乗る81年7月は反乱も収まり、毛利攻めが本格化した時期で、播磨教授は「信長に再使用を認められたのだろう」と推測している。
藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)は「秀吉の書状は年号のないものが多いが、署名時期の境目が明確になり、他の文書の年代も推定できるようになる。秀吉の署名の変遷は、信長側の史料などで裏付けられれば面白い」としている。
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141222-OYT1T50024.html?from=ytop_main3
続きを読む
豊臣秀吉が中国攻めの難航や黒田官兵衛幽閉の責任を負って、「筑前守(ちくぜんのかみ)」の名乗りを織田信長に返上したか、剥奪されていた可能性が高いことが中京大の播磨良紀教授(織豊期(しょくほうき)研究)の研究でわかった。
播磨教授は「本能寺の変以前の秀吉の実像解明につなげたい」と話している。
約7000通にのぼる秀吉の文書を集成する「豊臣秀吉文書集」(名古屋市博物館編、来月刊行)の編集作業で判明したといい、学術誌「織豊期研究」で発表した。
秀吉は1573年7月、木下姓から羽柴姓になり、75年に筑前守を名乗り始めたが、定説では「藤吉郎秀吉」と「筑前守秀吉」を併用していたとされる。
しかし、播磨教授によると、羽柴時代の文書約1000点の署名を時系列で調べたところ、75年〜78年12月は「筑前守」、同月〜81年7月は「藤吉郎」だった。
秀吉は当時、信長の命で中国地方の征討に乗り出し、播磨(兵庫県西部)を制圧。さらに西の毛利氏と戦おうとしたが、78年2月に播磨の大名の別所氏、同年11月には有岡城(同県伊丹市)の荒木村重が反乱を起こし、村重を説得しに行った黒田官兵衛が幽閉された。
再び筑前守を名乗る81年7月は反乱も収まり、毛利攻めが本格化した時期で、播磨教授は「信長に再使用を認められたのだろう」と推測している。
藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)は「秀吉の書状は年号のないものが多いが、署名時期の境目が明確になり、他の文書の年代も推定できるようになる。秀吉の署名の変遷は、信長側の史料などで裏付けられれば面白い」としている。
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141222-OYT1T50024.html?from=ytop_main3
転載元スレッド:http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1419226924/
羽柴筑前守秀吉←1578年12月〜1581年7月は信長に「筑前守」を剥奪されていたことが判明
羽柴筑前守秀吉←1578年12月〜1581年7月は信長に「筑前守」を剥奪されていたことが判明
続きを読む
2014年08月30日
1 : オリンピック予選スラム(神奈川県)@\(^o^)/ :2014/08/30(土) 22:19:40.63 ID:YPqiLjmg0.net BE:404120227-PLT(13001) ポイント特典
29日放送の「ゴロウ・デラックス」(TBS系)に明智光秀の子孫で作家の明智憲三郎氏が出演し、本能寺の変の「真相」を語った。
この日、ゲストとして出演した明智氏は、もともと三菱電機でシステムエンジニアをしていたが、50年にわたり独自に本能寺の変を調べてきたという。
明智氏は、信長を暗殺したとされる明智光秀の子孫ということで、自分を「明智」と紹介するのも「辛くて辛くてしょうがない時代」を送ったが、光秀が恨みつらみで殺した通説を「本当だろうか」と不思議に思い、真実が知りたい一心で光秀について調べつづけたのだという。
本能寺の変については、光秀が信長の厳しい仕打ちを恨んでいたため、本能寺の警戒が薄かったことにつけ込んで暗殺した、とするのが現在での通説となっている。
しかし、番組では、通説とはまったく異なる明智氏が主張する本能寺の変の「真実」が明智氏の著書「本能寺の変431年目の真実」にもとづいて紹介された。
明智氏の主張では、信長はかねてより徳川家康を危険人物と見なしていた。そして、信長が家康を本能寺におびき寄せてから暗殺するよう、光秀に命じていたのだという。
というのも、本能寺の変の当時、家康は本能寺に向かって上洛している最中であったとの記録が残っており、また、光秀の家臣が記した記録にも本能寺に行くのは家康を討ちに行くのかと思っていたとの記載がある。
しかし、「イエズス会日本年報」には信長が中国を征服するという野望を持っていたとの記録がある。光秀が中国への侵攻を命ぜられれば、最悪の場合、明智一族が滅亡してしまうことも考えられる。明智氏は、光秀は中国行きとなるか、謀反を起こすかのどちらかを選ばざるをえない状況だったと指摘した。
そして、そうした危機を感じた光秀は、信長が家康を討とうとしていることを家康本人に伝え、光秀は家康と信長を暗殺することで協力関係を結んだのではないかと説明した。
またスペインの貿易商人アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」に、信長が本能寺での最後の言葉は「わしは自ら死を招いた」と書かれていることも、明智氏の説の正しさを証明しているという。つまり、自ら仕掛けた家康の暗殺計画によって信長自身が暗殺されたということだ。
また、本能寺の変を予想していた秀吉は「中国大返し」で長距離を短時間で移動し、山崎の戦いで光秀を討っている。その後、秀吉は自らの正当性を主張すべく、「光秀が恨んで信長を殺した」と、本能寺の変のわずか4か月後に歴史書を書かせた。秀吉は信長を裏切った光秀を成敗した武将として、権力者の地位に収まったのだ。
これについて、明智氏は「日本中が430年前の秀吉に騙されている」と述べた。
なお、明智氏は10年ほど前から信長の子孫である織田家の人との付き合いがあると語っている。
以下ソース
http://news.livedoor.com/article/detail/9201074/
続きを読む
29日放送の「ゴロウ・デラックス」(TBS系)に明智光秀の子孫で作家の明智憲三郎氏が出演し、本能寺の変の「真相」を語った。
この日、ゲストとして出演した明智氏は、もともと三菱電機でシステムエンジニアをしていたが、50年にわたり独自に本能寺の変を調べてきたという。
明智氏は、信長を暗殺したとされる明智光秀の子孫ということで、自分を「明智」と紹介するのも「辛くて辛くてしょうがない時代」を送ったが、光秀が恨みつらみで殺した通説を「本当だろうか」と不思議に思い、真実が知りたい一心で光秀について調べつづけたのだという。
本能寺の変については、光秀が信長の厳しい仕打ちを恨んでいたため、本能寺の警戒が薄かったことにつけ込んで暗殺した、とするのが現在での通説となっている。
しかし、番組では、通説とはまったく異なる明智氏が主張する本能寺の変の「真実」が明智氏の著書「本能寺の変431年目の真実」にもとづいて紹介された。
明智氏の主張では、信長はかねてより徳川家康を危険人物と見なしていた。そして、信長が家康を本能寺におびき寄せてから暗殺するよう、光秀に命じていたのだという。
というのも、本能寺の変の当時、家康は本能寺に向かって上洛している最中であったとの記録が残っており、また、光秀の家臣が記した記録にも本能寺に行くのは家康を討ちに行くのかと思っていたとの記載がある。
しかし、「イエズス会日本年報」には信長が中国を征服するという野望を持っていたとの記録がある。光秀が中国への侵攻を命ぜられれば、最悪の場合、明智一族が滅亡してしまうことも考えられる。明智氏は、光秀は中国行きとなるか、謀反を起こすかのどちらかを選ばざるをえない状況だったと指摘した。
そして、そうした危機を感じた光秀は、信長が家康を討とうとしていることを家康本人に伝え、光秀は家康と信長を暗殺することで協力関係を結んだのではないかと説明した。
またスペインの貿易商人アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」に、信長が本能寺での最後の言葉は「わしは自ら死を招いた」と書かれていることも、明智氏の説の正しさを証明しているという。つまり、自ら仕掛けた家康の暗殺計画によって信長自身が暗殺されたということだ。
また、本能寺の変を予想していた秀吉は「中国大返し」で長距離を短時間で移動し、山崎の戦いで光秀を討っている。その後、秀吉は自らの正当性を主張すべく、「光秀が恨んで信長を殺した」と、本能寺の変のわずか4か月後に歴史書を書かせた。秀吉は信長を裏切った光秀を成敗した武将として、権力者の地位に収まったのだ。
これについて、明智氏は「日本中が430年前の秀吉に騙されている」と述べた。
なお、明智氏は10年ほど前から信長の子孫である織田家の人との付き合いがあると語っている。
以下ソース
http://news.livedoor.com/article/detail/9201074/
転載元スレッド:http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1409404780/
「本能寺の変」の真相を明智光秀の子孫が激白 「日本中が秀吉に騙されている」
「本能寺の変」の真相を明智光秀の子孫が激白 「日本中が秀吉に騙されている」
続きを読む
2013年12月03日
え1 : レッドインク(埼玉県)[sage] :2013/12/03(火) 13:16:38.89 ID:724KvyDqP BE:3115627294-PLT(12050) ポイント特典
『のぶニャがの野望』
アップデート「智将ボンベイ」実施!
〜ねこ武将黒田ボンベイの成長を描くイベント「ねこ戦記」も開催決定!〜
当社は、好評サービス中のソーシャル戦国シミュレーションゲーム『のぶニャがの野望』につきまして、本日2013 年11 月29 日(金)に新たな“ねこ武将”追加のアップデートを実施いたしました。また、『のぶニャがの野望』の楽曲CD 情報など、関連情報についてもあわせてお知らせいたします。
■11月29日(金)新たなねこ武将を追加、テーマは「智将ボンベイ」
本日追加されたねこ武将のテーマは「智将ボンベイ」です。秀吉の天下統一を支え、関ヶ原の戦いでは自らも天下取りに動いた智将・黒田ボンベイをはじめとして、合計7 体の“ねこ武将"が加わりました。
http://www.4gamer.net/games/125/G012587/20131129046/
続きを読む
『のぶニャがの野望』
アップデート「智将ボンベイ」実施!
〜ねこ武将黒田ボンベイの成長を描くイベント「ねこ戦記」も開催決定!〜
当社は、好評サービス中のソーシャル戦国シミュレーションゲーム『のぶニャがの野望』につきまして、本日2013 年11 月29 日(金)に新たな“ねこ武将”追加のアップデートを実施いたしました。また、『のぶニャがの野望』の楽曲CD 情報など、関連情報についてもあわせてお知らせいたします。
■11月29日(金)新たなねこ武将を追加、テーマは「智将ボンベイ」
本日追加されたねこ武将のテーマは「智将ボンベイ」です。秀吉の天下統一を支え、関ヶ原の戦いでは自らも天下取りに動いた智将・黒田ボンベイをはじめとして、合計7 体の“ねこ武将"が加わりました。
http://www.4gamer.net/games/125/G012587/20131129046/
転載元スレッド:http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1386044198/
秀吉死亡後、どうすれば豊臣家は滅亡せずに済んだの?
秀吉死亡後、どうすれば豊臣家は滅亡せずに済んだの?
続きを読む
先月の人気記事
昨日ちょっとだけ読まれた記事











