織田信長

2017年07月31日
1 : 名無しさん@涙目です。(東京都)@\(^o^)/ [sage] :NG NG.net
織田信長は天下統一を目指した。
ならば俺は歴史統一を目指す。
日本史の問題

日本史に関する問題の中で、特に有名なのが「信長の周囲に未来人が多すぎる問題」である。

15世紀末から16世紀末にかけての日本は戦乱が勃発し、政治的に不安定な社会であった。そのためか時空も不安定な状態にあり、タイムスリップが頻発していた。中でも織田信長の周辺は特筆すべきものがあり、彼の周りには未来人が大勢いたと言われている。また、信長本人も例外ではなく、彼自身もタイムスリップに何度も巻き込まれている。

信長周辺のタイムスリップ事例は現在でも新たに発見されており、もはや全容を把握している者はいないと言っていい。そこでこの記事では、可能な限りタイムスリップの事例を集めて整理し、信長の歴史を統一することを目指す。統一された信長史

これより信長史を書いていくわけだが、いくつか注意点がある。

まず、信長はあまりにも多くのことを成し遂げたため、ここにその全てを記すことはできない。この記事では基本的に信長にまつわる未来人やタイムスリップ案件だけをまとめる。また、信長は未来や異世界で活躍することも多いが、ここでは16世紀の日本での活動のみに留める。

当時の人物は改名することが多いが、この記事では最も有名な名前に統一して書く。例えば木下藤吉郎・羽柴秀吉はその時代に関わらず豊臣秀吉と書く。これは人物が入れ替わることが多いため、名前まで変わるとさらに混乱するためである。

なお、歴史の話であるため、ネタバレについては一切配慮しないと注意しておく。

(省略)

全文(オカルト系、電波系、トンデモ系などではありません)
タイムスリップが多発する信長の歴史を統一する
http://honeshabri.hatenablog.com/entry/history_of_nobunaga




続きを読む
歴史 | 雑談│03:36│コメント(16)




2017年02月06日
1 : グロリア(愛知県)@\(^o^)/ :2017/02/05(日) 18:49:17.73 ID:XPxvzlum0.net BE:218927532-PLT(12121) ポイント特典
就任前に輪をかけて世界と世間を騒がせているトランプ米大統領が誕生して半月。強烈な個性−攻撃的でツイッター介入を繰り返し、予測不能。こんな人がいきなり上司として乗り込んできたらたまらんだろうな、と思う。

では、織田信長が上司だったらどうだろうか。ワンマン。峻厳(しゅんげん)で苛烈。能力主義。それでいて人情に厚いところやどこか甘い、坊ちゃん的なところ(これら意外な性格についてはまた後日)もある。

ただ、上司・信長に仕えたさい、まず辟易(へきえき)させられるだろうと思うのは、その細かさである。指示にしろ報告にしろ、微に入り細をうがった要求をしてくるのだ。

続き
http://www.sankei.com/life/news/170205/lif1702050034-n1.html


続きを読む
仕事 | 歴史│00:31│コメント(11)

2014年12月22日
1 : ジャストフェイスロック(大阪府)@\(^o^)/ :2014/12/22(月) 14:42:04.93 ID:Tpp1ngR70.net BE:711292139-PLT(13121) ポイント特典

 豊臣秀吉が中国攻めの難航や黒田官兵衛幽閉の責任を負って、「筑前守(ちくぜんのかみ)」の名乗りを織田信長に返上したか、剥奪されていた可能性が高いことが中京大の播磨良紀教授(織豊期(しょくほうき)研究)の研究でわかった。

 播磨教授は「本能寺の変以前の秀吉の実像解明につなげたい」と話している。

 約7000通にのぼる秀吉の文書を集成する「豊臣秀吉文書集」(名古屋市博物館編、来月刊行)の編集作業で判明したといい、学術誌「織豊期研究」で発表した。

 秀吉は1573年7月、木下姓から羽柴姓になり、75年に筑前守を名乗り始めたが、定説では「藤吉郎秀吉」と「筑前守秀吉」を併用していたとされる。

 しかし、播磨教授によると、羽柴時代の文書約1000点の署名を時系列で調べたところ、75年〜78年12月は「筑前守」、同月〜81年7月は「藤吉郎」だった。

 秀吉は当時、信長の命で中国地方の征討に乗り出し、播磨(兵庫県西部)を制圧。さらに西の毛利氏と戦おうとしたが、78年2月に播磨の大名の別所氏、同年11月には有岡城(同県伊丹市)の荒木村重が反乱を起こし、村重を説得しに行った黒田官兵衛が幽閉された。

 再び筑前守を名乗る81年7月は反乱も収まり、毛利攻めが本格化した時期で、播磨教授は「信長に再使用を認められたのだろう」と推測している。

 藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)は「秀吉の書状は年号のないものが多いが、署名時期の境目が明確になり、他の文書の年代も推定できるようになる。秀吉の署名の変遷は、信長側の史料などで裏付けられれば面白い」としている。

http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141222-OYT1T50024.html?from=ytop_main3


転載元スレッド:http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1419226924/
羽柴筑前守秀吉←1578年12月〜1581年7月は信長に「筑前守」を剥奪されていたことが判明

続きを読む
2014年08月30日
1 : オリンピック予選スラム(神奈川県)@\(^o^)/ :2014/08/30(土) 22:19:40.63 ID:YPqiLjmg0.net BE:404120227-PLT(13001) ポイント特典

29日放送の「ゴロウ・デラックス」(TBS系)に明智光秀の子孫で作家の明智憲三郎氏が出演し、本能寺の変の「真相」を語った。

この日、ゲストとして出演した明智氏は、もともと三菱電機でシステムエンジニアをしていたが、50年にわたり独自に本能寺の変を調べてきたという。

明智氏は、信長を暗殺したとされる明智光秀の子孫ということで、自分を「明智」と紹介するのも「辛くて辛くてしょうがない時代」を送ったが、光秀が恨みつらみで殺した通説を「本当だろうか」と不思議に思い、真実が知りたい一心で光秀について調べつづけたのだという。

本能寺の変については、光秀が信長の厳しい仕打ちを恨んでいたため、本能寺の警戒が薄かったことにつけ込んで暗殺した、とするのが現在での通説となっている。

しかし、番組では、通説とはまったく異なる明智氏が主張する本能寺の変の「真実」が明智氏の著書「本能寺の変431年目の真実」にもとづいて紹介された。

明智氏の主張では、信長はかねてより徳川家康を危険人物と見なしていた。そして、信長が家康を本能寺におびき寄せてから暗殺するよう、光秀に命じていたのだという。

というのも、本能寺の変の当時、家康は本能寺に向かって上洛している最中であったとの記録が残っており、また、光秀の家臣が記した記録にも本能寺に行くのは家康を討ちに行くのかと思っていたとの記載がある。

しかし、「イエズス会日本年報」には信長が中国を征服するという野望を持っていたとの記録がある。光秀が中国への侵攻を命ぜられれば、最悪の場合、明智一族が滅亡してしまうことも考えられる。明智氏は、光秀は中国行きとなるか、謀反を起こすかのどちらかを選ばざるをえない状況だったと指摘した。

そして、そうした危機を感じた光秀は、信長が家康を討とうとしていることを家康本人に伝え、光秀は家康と信長を暗殺することで協力関係を結んだのではないかと説明した。

またスペインの貿易商人アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」に、信長が本能寺での最後の言葉は「わしは自ら死を招いた」と書かれていることも、明智氏の説の正しさを証明しているという。つまり、自ら仕掛けた家康の暗殺計画によって信長自身が暗殺されたということだ。

また、本能寺の変を予想していた秀吉は「中国大返し」で長距離を短時間で移動し、山崎の戦いで光秀を討っている。その後、秀吉は自らの正当性を主張すべく、「光秀が恨んで信長を殺した」と、本能寺の変のわずか4か月後に歴史書を書かせた。秀吉は信長を裏切った光秀を成敗した武将として、権力者の地位に収まったのだ。

これについて、明智氏は「日本中が430年前の秀吉に騙されている」と述べた。

なお、明智氏は10年ほど前から信長の子孫である織田家の人との付き合いがあると語っている。

以下ソース
http://news.livedoor.com/article/detail/9201074/

転載元スレッド:http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1409404780/
「本能寺の変」の真相を明智光秀の子孫が激白  「日本中が秀吉に騙されている」

続きを読む
2013年06月21日
1 : シンガプーラ(秋田県)[sage] :2013/06/21(金) 16:18:59.75 ID:n0D7TpyAP BE:888842737-PLT(12001) ポイント特典
光秀はなぜ、信長に反旗を翻したのか? これについては、日本史における大きな謎の一つとして長らく議論が続いている。さきごろ朝日新聞出版より創刊された「週刊 新発見!日本の歴史」の第1号では、本能寺の変について、最新の学説にもとづいてその真相に迫っている。それによると、光秀が本能寺急襲におよんだその理由としては、以下のようなものがあげられるという。誌面では、それぞれの説の有力度が星の数(最大3つ)で示されていた。

・怨恨説 星2つ
・野望説 星2つ
・悲観説 星1つ
・四国政策説 星3つ
・黒幕説……朝廷説(星1.5つ)、足利義昭説(星1つ)、羽柴秀吉説(星0.5つ)、徳川家康説(星0.5つ)

このうち「怨恨説」は、面罵された、領地替えを命じられたなどの理由で、光秀が信長に恨みを抱いたという、ドラマやマンガなどでもおなじみの説である。だがこれを断定するにはまだ証拠が不十分なのか、星2つにとどまる。星3つをつけたのは「四国政策説」だけだが、この説は一般的にはなじみが薄いかもしれない。私も不勉強にも初めて知った。

信長はもともと、土佐(高知県)の長宗我部氏と友好関係を結び、同氏による四国制圧を容認していた。この関係の媒介役を担っていたのが光秀(とその重臣の斎藤利三)だった。それが1581年から翌年にかけて、信長は友好から対決へと四国政策の方針を転換、それまで長宗我部氏の窓口となっていた光秀はすっかり立場を失ってしまう。このことが彼に信長を討つ決意をさせたというのだ。

もちろん、これによってすべてが説明できるわけではない。光秀はあくまで自らの決意で信長を討ったのか。それとも、四国政策の転換から家臣団のなかで不利な立場となった光秀を、かつての主君ともいうべき足利義昭(室町幕府15代将軍)が、自らを中心に形成した信長包囲網に取りこんで信長殺害をうながしたのか。結論を出すには、さらなる史料の検討が必要のようである。
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130621/E1371748380301.html

転載元スレッド:http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1371799139/
明智光秀が本能寺に織田信長を攻めた本能寺の変に新説?

続きを読む
スポンサードリンク
記事検索
月別アーカイブ
最新記事
スポンサードリンク